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涜聖の系譜

短歌を詠んで数年になる。多くの作家の作品にも触れ、触発されたりまた不審に思うこともあるのであるが、このところ気づくことに、キリスト教のモチーフがそちこちで多用されているということがある。ふと芥川龍之介や北原白秋のきらきら文学を思い出してしまった筆者である。


われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法、

黒船の加比丹(かぴたん)を、紅毛の不可思議国を、

色赤きびいどろを、匂い鋭(と)きあんじゃべいいる、

南蛮の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)、珍陀(ちんだ)の酒を。

目見(まみ)青きドミニカ人は陀羅尼(だらに)誦(づ)し夢にも語る、

禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔 (くるす)、

芥子粒を林檎のごとく見すという欺罔(けれん)の器(うつは)、

波羅葦僧(はらいそ)の空をも覗(のぞ)く伸び縮む奇なる眼鏡を。

北原白秋「邪宗門秘曲」


提宇子(でうす)のいわく、DS(でうす) は「すひりつあるすすたんしや」とて、無色無形の実体にて、間に髪を入れず、天地にも充満して在しませども、別して威光を顕わし善人に楽を与え玉わんために「はらいそ」とて極楽世界を諸天の上に作り玉う。その始人間よりも前に、安助(天使)とて無量無数の天人を造り、いまだ尊体を顕し玉わず。上一人の位を望むべからずとの天戒を定め玉い、この天戒を守らばその功徳に依って、DS の尊体を拝し、不退の楽を極むべし。もしまた破戒せば「いんへるの」とて、衆苦充満の地獄に堕し、毒寒毒熱の苦難を与うべしとの義なりしに、造られ奉って未だ一刻をも経ざるに、即ち無量の安助の中なかに「るしへる」と云える安助、己が善に誇って我は是 DS なり、我を拝せよと勧めしに、かの無量の安助の中うち、三分の一は「るしへる」に同意し、多分は与せず、ここにおいて DS「るしへる」を初とし、彼に与せし三分の一の安助をば下界へ追い下し、「いんへるの」に堕せしめ給う。即すなわち安助高慢の科に依って、「じゃぼ」とて天狗と成りたるものなり。

芥川龍之介「るしへる」


さてひとたびキリスト教的イメージを駆使した歌が多いと気づいてから狩猟生活に入るのは、筆者の常である。

まず新しくは、二〇一四年に短歌研究新人賞を受賞した石井僚一氏の短歌作品の中に群発していることがあげられるのである。


1.神様を引き摺り出して紙の上のユートピアから閉鎖病棟
2.神は糞を拭かない公衆トイレから喘ぐように歌わるる讃美歌
3.雨上がる竹藪のなかエロ本のごと汚れたる聖書ありけり
石井僚一「二〇一四年短歌研究新人賞受賞作」 

よくよく考えると同年角川短歌賞を受賞した谷川電話氏の一首に
4.街角で突きつけられて飛びのいた ナイフじゃなくて聖書(バイブル)だった
谷川電話「二〇一四年角川短歌賞受賞作」

という作品があり、まず各受賞作からピッキングしてみることとする。


5.うまごやのマリア墓場のジュリエットクローバーの花をぼくは環に編む

  山田富士太郎「一九八七年角川短歌賞受賞作」

6.蛇口からこぼれる雫 キリストの出現前のヨハネの涙  
小島なお「二〇〇四年角川短歌賞受賞作」 
  受賞作家のイメージ構成力はキリスト教用語も容易く駆使し歌にできる、というとであろうか。これらは所謂デビュー作と言うものであるから、作家の揺籃期の力量によるもので、さすが大歌人の領域にあられる先生方は容易くキリスト教を語らない。キリスト教用語を使ったとしてもあたりまえに料理し、鑑賞者に居心地悪さを与えない。


7.はじけたる無花果の実を食べておる顔いっぱいがキリスト様だ 
山崎方代
8.ゆく春の思はざる寒ふかき夜をヨブ記は終りヨブ死ににけり
島田修三
導入に入れた北原と芥川の作品からも知れることであるが、キリスト教用語はエキゾチックできらきらしている。若い方々にはカッコイイものであるには違いない。

石井氏の使う単語とその脈絡は、神様を引き摺り出し、結末が閉鎖病棟(どうやら精神病院のことか?)の一首と、神と糞と公衆トイレと讃美歌の一首と、エロ本と汚れる聖書の一首。この「面白さ」が選考された理由のような気がするのは筆者の私感である。どうやら無神論者には聖なるものは存在しないのだ。聖と穢れの妙ということであろうか。ここに筆者は涜聖の短歌を定義し展開したいと思うのである。

若い歌人を発掘しておられる何人かの歌人の新聞歌壇や投稿サイトから拾ってみることとする。


9.携帯がびちびちびちと発話する旧約聖書のさかなのように 
   柳本々々「毎日歌壇加藤治郎選 二〇一四年七月六日」
面白い!旧約聖書はさかななんだ?
10.海渡るモーゼの杖を燃やしたき夢に駆られる教徒もありし 
  蜂谷希一「笹短歌ドットコム」 
モーゼの杖を燃やしたいという夢というか野望のその杖とは教徒の何の象徴であるや?
11.少年の真白き指に浚われる神学校の黒い聖書(バイブル)
虫武一俊「笹短歌ドットコム」
黒と言うのは何の象徴でありや? Oh! 白い指と黒い聖書であらん!
12.空っぽの冷蔵庫には靴下と聖書を入れて熟すのを待つ 
新井蜜「桝野浩一のかんたん短歌blog」
冷蔵庫と靴下と聖書!面白い!まるで手術台の上のミシンと蝙蝠傘だね!
涜聖・・・気持ちはよく判る。ただ筆者がそのような衝動を抱いたのは幼稚園の時だけである。仏教寺院の経営する幼稚園に通う筆者は園の休憩時間裏を通ってお寺の境内に入ると、そこでパンツを下しておしっこをしたのだ。そして何食わぬ顔で教室へ戻るのである。このときの筆者のしてやったり感とは。聖なるものとして掲げられる「なにか」を穢したいというのは本能である。

恋愛や母性もそうであるが、「本能」をくすぐると読者がつくことは確かなことだろう。ただ、それが芸術の道であるかどうかはここで定理は立てない。

それでは、「わがデウスさまを冒涜なさるか???」をテーマに少しお歌を並べてみよう。

13.君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか
   永井祐「日本の中でたのしく暮らす」
14.ベツレヘムに導かれても東方で妻らは餓える天動説者
         中島裕介「Starving Stargazer」
15.「悪魔さえ聖書を引ける、身勝手に…」A・エスコバルに手紙を出した
中島裕介「Starving Stargazer」
16.床に投げつける錠剤ジーザスが死んだのはぼくたちのせいじゃない 
松野志保「too young to die 」
17.うつむきし瞬時踏繪のイエス見ゆ色盲檢査紙の極彩に
          江畑實「檸檬列島」
18.鍵をかけ部屋にひとりの夜はきみのかはりに薔薇を磔刑に処す
          江畑實「檸檬列島」
19.てのひらに秋のをはりの驟雨沁むいまこの傷を聖痕と呼ぶ
江畑實「檸檬列島」
20.ゴルゴタにいやいやながら吊されよメシアよ君はズブの素人
市原克敏「無限」
21.マリア像美しければ自涜の夜思い出すかな俺も牧師も
八木博「フラミンゴ」
22.竹煮草けだるくゆるる午後三時聖母(マリア)と娼婦(マリイ)さしちがへたり
榊原敦子「火の器」
23.マグダラのマリアがイエスの妻といふどこかやすらぐ異教徒われは
田土成彦「糸遊伝説」
24.嫌悪感あらはにからだ捩(よ)ぢりたり受胎告知をなされてマリア
佐竹游「草笛」
25.殴られる道具を選ばせてやらう 棍棒、札束、或ひは十字架
淡深波「塔所属」
26.一冊の本落ちている石の上、蟻が見ている旧約聖書 
         風間祥「短歌人所属」
27.木曜の午後はけだるい 七曜の宙ぶらりんの十(十字架)の愛 
  風間祥「短歌人所属」
28.糠星がふたりの顔を仄照らしイエスとユダの密談つづく 
伊波虎英「短歌人所属」
29.カフェラテに描かれた心臓(ハート)を崩しつつイエスを裏切るユダを思うよ
川島信敬「率所属」
30.あとがきに「ぼくを嫌いな奴はクズだよ」と書き足すイエス・キリスト
• 木下龍也 Site「詩客」
31.お揃いの ストラップをした 王冠と十字架が隔てた 貴族と愚民
為平澪blog「月の城」
32.ああこゑが、ずつと聞こえてゐるのです夜汽車のやうに聖書のやうに
        西巻真のblog「未来所属」
そしてここに、タレント歌人の登場である。
33.にょにょーんとピザのチーズを曳きながらユダとイエスのくすくす笑い
穂村弘「ラインマーカーズ」 
34.ピエタというひとつの型に声絶えて釘打つように逢いにゆきたり
   大森静佳「角川短歌二〇一三年一一月」
こう言ったイメージ優先の歌は、少なくとも信仰の観点からは解釈する余地がないので、ご紹介だけでスルーさせていただく。 さらには真打にご登場いただく。

35.きつとカインはアベルを愛したんだよと言ひしおまへに微笑(ゑみ)を分けやる
黒瀬珂瀾「黄金時代」
36.復活の前に死がある昼下がり王は世界を御所望である
  黒瀬珂瀾「月齢十五/典礼」
37.聖母被昇天祝祭日にて背の君よおきてはならぬおきてはならぬ 
黒瀬珂瀾「月のかけらを」
38.てのひらに孔(あな)ある人とすれちがひ見失ひたりこの繁華街
  黒瀬珂瀾「転生の歌」
カインとアベルは笑っている場合ではない。憎しみの情念人をも殺す。黒瀬氏二首目の「王」とは、キングオブザジュードでしょ? この歌に主語は二つ無いはずである。黒瀬氏の歌はすべてが綺麗である。そして何首も読んでいるとそのイメージは多岐に渡り、特に神話や歴史、聖書など溢れる西洋の教養に溺れてしまいそうになる。それがあたかもサブリミナル効果のように、「神はいない」「神はいない」と暗示するのである。神は黒瀬氏の道具に過ぎないのである。最後の歌、てのひらに孔のある人ならば繁華街をうろついてはいない。祈る人の前に現れるのだ。だから黒瀬氏は彼と出会ってはいないのである。嘘をついてはいけない。

さて、真打のあとには場外編で塚本邦雄を語って終わることにする。

しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしづかなる釘音きけり  
塚本邦雄
イエスに肖たる郵便夫来て鮮紅の鞄の口を暗くひらけり
  塚本邦雄


塚本はきらきら文学では明治の文豪に負け、キリスト教用語駆使短歌では真正キリスト教徒に負けたわけで、ただその芳醇な異国の香り、しかも異国とはどこか同定できないもやもやとした雲を私たちの頭上に吹かしたのである。それが今もってファンを擁している所以であろう。

最後に、掲載の短歌は多くはネットから拾い、裏付けを取ったものである。ネットに公開していただいているだけありがたいことで、そういったスタンスを選んだ歌人の方々は決して筆者の敵ではないことはあきらかである。筆者の論考のサンプルとして使わせていただいたことをこの場を以てお詫び申し上げる。さらには、涜聖を書いた筆者はもちろんキリスト教徒であり、当事者でない人間の物見遊山ではけっしてないことをお断りしておく。

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